スクランブル
ソラニンどころではない、もう栄養が次の世代を作る為に芽に移っているじゃがいもがたくさんあったから、消費するためにポテトサラダを作った。ポテトサラダ好きの一緒にご飯を食べる人が居るものだから、色んな居酒屋でポテトサラダを食べてきたから、そろそろ自分のも作ってみようかなと。
きゅうりとか玉ねぎとかウインナーとかはなかったら、食材はゆで卵とブロッコリーと人参とチーズ。調味料は、塩、胡椒、砂糖、コンソメ、酢、マヨネーズ。おそらく上品な感じはお酢が出しているんだと思う。自分の食べてもお酢が使われているっていうは分らない。
肉料理は、豚肉とキャベツとピーマンのトマト缶ウスターケチャップ牛乳炒め煮。
牛乳はちょっとしか入れていないから、まろやかになっているかは不明。ピーマンの苦味が良い感じ。
箸休めは、水菜の胡麻和え。時短枠だから、白だしとすりごまだけで味付けしている。
調子に乗って千切り大根加えたけど、これは昨日の弁当のおかずが残っていたからまだ食べていない。
今日は趣向を変えて、この料理たちの画像も張って見よう。使い回しだけど。
楽しんでいる感が見えると言われたのだけど、見る人によってはどんな非言語が見えるのだろう。
今日のテーマは楽しいで良いか。
ともあれ。
時代遅れでツムツムっていうアプリを始めたことは書いたはず。自分の反応の鈍さと指の太さに辟易する。面積が広いからどこが反応しているのかっていうのが把握できていない。のは良いとして。
母親もやっているみたいで、同じキャラで自分より高得点出して煽ってくるのが悔しい。
どの人がランキングで出るのかっていうのもよく分からん。ブロックして削除したはずの元恋人さんが届くまでどれくらいやらねばならんのだっていうくらいの桁違いのトップに居るのだけど、前の前の職場の人は出てこなかった。ここで出てくればもう一回くらい飲みに行けたのだけど。何システムだよ。
まぁここの話は、別にゲームの話じゃない。
僕は第一感で母親が煽ってきたと解釈して悔しくなった訳だけど、第二感としては、息子よ、始めたのか、私も同じキャラ持っとるよっていうアピールだろうなっていう解釈が出てきて、こっちの方が有力だと判断した。負けている悔しさは残るけど、この悔しさは楽しい悔しさ。
楽しい悔しさっていう観念がないよって言われそうだけど、それは語彙が混同していて、ねたみとかやっかみとか、自分がやろうともしてないことに対する羨望が交じっているからだと思われ。純粋な悔しさって結果はどうあれ当人の糧になるもの。割とエネルギー値高いからどう扱うかって難しいところだけど。
そうして、ふと思ったこと。
人と人の関係って、互いが勝手に解釈していることに他ならないなと。
例えばツムツムの例に戻すと、母親に煽って来やがってって感情をぶつけたとしても母親的にはそんなつもりは全く無いかもしれない。
逆に分かりにくいか。
要は、自分のこうしているつもりと、相手の自分への解釈の齟齬があってもどっちが正しいっていうことはないということ。セクハラとかいじめとかは相手がそう感じたらそうだっていうのがあるけど、これは被害者保護に寄った視点。
人が他人と繋がるには、お互いの中で当人像を二次コピーするしかない。もう少し言うと自己像すら二次だけど。
この文脈で、人って関係している人の生存を願う訳だけど、それは物理的に生きていてほしいっていうよりも、解釈が更新されることが楽しいからではなかろうか。
もちろん知らんけど。
最後。
楽しいっていう観念はきっとズレている。
思い通りになるとか、何か心地よい状況みたいなものは別に面白くない。
一言で言うなら、自分の更新可能性が在る限りは楽しい。
絶賛上限解放中だかフィーバーしている。他人への解釈も決めつけがなくなってきた。
人間が生きるっていうのは、可能性を拡げること。
広がらないなら、それは。
結論。
生命を楽しんでいる。
おしまい。