時代の外
今日は本当に時間がないのだけど毎日やっておかないと指が鈍る。自分の不器用さは自分が一番知っているから、ちゃんと積む必要がある。あとは、渦中のうちに記しておきたい日記的日記もあるし。
さておき。
感動と恐怖は少し似ている。共通項は、未知への畏れが根にあること。未知はベクトルによって好奇心になるからあまり意識されないけど、自分の感覚が否応なく引き出されるっているのはなかなか怖いことだと思う。感動は感情が動くっていう意味もあるだろうけど、メインは知覚が動くこと。当たり前と認識していたことが当たり前ではなくなると言っても良い。
藤田嗣治展を見てきた。
一言で凄い。鳥肌が立ちっぱなしだった。寒さにも似ている。
何が凄いって、言語はもちろん最新技術でも再現できないところ。図録とかポストカードでは現実の3割も再現できていないのではなかろうか。二次的にコピペしてしまうと二次元でしかないのだけど、原画は三次元になる。絵の具の厚みとか質感。あとは、人の視覚で認識できるように色付けされているから、機械で写すと拾えない部分がある。これだけ写す技術が発達したといっても人の目で見るようには表せないから、現物の生物を見ることでしてか伝わらない。単に鮮やかであるだけとも違う、現実じゃないとは分かってみているのに現実に見えるという、視覚を騙せる技術。
高校の時、世界史とかで著名な作家の宗教画を教科書で見る機会はあったけど全然響かなくて、僕には芸術は分らないのだなぁって思っていたけど、そうではなかった。これらも生物見たらぜんぜん違うはず。
ルーブルとかも行ってみたいなぁ。
何かの本のタイトルだったかで、一流の人は芸術を鑑賞しているっていうのがあったけど、なんとなく分かった。一流の芸術作品って構図とか色彩はもちろんだけど、本質は、普遍性を含んでいることで、この普遍性は、直に接しないと響かないところ。
後天的にセンスをなんとかするには唯一の道なのでは。
これは書物でも通じるところで、古典として現在にまで残っているものには、なんらかの普遍性がある。と思う。
という感じで、非言語情報がめちゃくちゃ収集できてかなり精神充電できた。
非言語といえば、寺社仏閣も大好き。
平安神宮行ってきた。これも言語表現すると、鳥居をくぐれば異次元で空気が清廉だった、みたいな感じ。空気が全然違う。純粋な自然とは違った意味で自然。超自然で良いのかな。
北野天満宮も行ってきたけど、また空気が違う。
個人的には菅原道真さんとしては知ったこっちゃないことだと思うけど、願いが結構ごりごりしたものだというのあると思われる。
さて、来年初詣に行く橿原神宮はどんな空気だろう。
神武天皇を祀っているということだから、かなり空気はぴりっとしていると思われる。
やべ、寝ないと。
最後。
言語が好きだっていうことには、非言語がセットになっていると思う。
非言語の領域は無限なのだけど、要は、言葉で括ることが不自由そのものだって把握して言葉を扱うこと。
僕は別に生活が向上したって感覚はないけれど、感覚は開放されてきているなと感じている。去年は感覚が閉じていた中で出雲大社とか伊勢神宮行ってあまり分からなくてもったいなかったなって。
人で見ると、非言語領域っていうのは、当人の語彙とセットだと思う。語彙が少ない人には非言語領域もそんなに分類できない。混沌というか宇宙というか。
楽しく生きよう。
おしまい。