硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

時の間

 

 

昨日の日記のタイトルは無私にするつもりだったのだけど間違えた。まぁどっちでも良いか。そういえば、もう7月になっているということをふと実感した。カレンダーは見ているのだけど、事務的に見ているからどうにも無感覚。暦に従ったイベントの予定がないからなのか、もともと時間の感覚が薄いからか。

 

胃腸の張りがあんまり戻ってこないから、夜ご飯は納豆かけご飯とレタスとミニトマトのサラダにした。明日の弁当はご飯と梅干にして、空腹に合わせて調整するつもり。弁当生活も作ったものは食べなきゃ腐るだけとなると、無理やりでも食べてしまうことになって、あまり健康には良くないかもしれない。これに慣れたらもう少し太るのかもしれないけど、食に重きを置いていない以上、一定量を毎日食べ続けるというのはなかなか大変。修行の範疇に含めればいけるがまだその予定はない。

 

 

さておき。

 

果てのない物語を読み終えた。長ったような短かったような。あまりに主人公が万能になってしまったところがあって、読み進められなかった。多分わざとそういう風に書いているのだろうけど。ブランク3年くらい。結論としては身の丈に合った自分が一番みたいな話(きっと違う)。世界の終わりとハードボイルドワンダーランドと通じるところがあるような。たまたまだけど読み合わせが良かった。そうしてこちらも読み終わる。そろそろドグラマグラを再開してみようかな。多分そんな感じ。どうせなら1から読み返すか。ちゃかぽこちゃかぽこ。

 

あと、途中で止まっている本あったかなぁ。あると思うけど、折に触れて出てくるだろうから放っておいて、新しいのに手を出すか。そろそろプルーストとかゲーテとか外国のやつも読んでいくか。外国文学は買っただけで全く読んでない本も結構あるからそちらでも良いのだけど。さらに教養としての日本史を読んでいると、日記文学とかと物語文学が発展してくる時代に入ったから、今昔物語集とか伊勢物語蜻蛉日記とか洗いざらいを原文で読みたい衝動に駆られている。古文単語辞典も欲しいなぁ。

 

眠くなってきた。

 

最後。

 

僕が暦の感覚が遅いのは、外的な時間よりも内的な時間に重きを置いているからだと思われる。内的な時間の流れは一定じゃなくて波打っていたり伸び縮み感じ。でも、外的時間と全然流れが違うから、ものさしを合わせるのが大変。だから、外的時間を基準にして内的時間を計るのは合理的だと思う。内的時間は個人の中だけのものだし、経過みたいな概念にもなじまないから他人に伝達するのが難しい。でも外的時間基準のデメリットは、このものさしでははかり切れないものが多いから、いろいろ粗くなってしまうことかね。知らんけど。

 

最後の最後。

 

今日は新月らしい。満月よりも新月は気分が良い気がする。たまたまかもしれないけど、なんとなく穏やか。でも、どこを自分の基準とするのかというのはすこぶる難しい。

 

では、おやすみなさい。

 

 

 

 

無視

今日はちゃんと夜ご飯を食べた。弁当に使いにくい食材を味噌汁にしたら思いのほか爽やかに。みょうが、ズッキーニ、ミニトマト、オクラ。ズッキーニ美味しい。

 

 

さておき。

 

君の名はが地上波で流れたらしく、賛否両論が上がっているみたい。今更という感じだけど、批判も分からんではない。僕も正直、口噛み酒は気持ち悪かった。好きな人が作ったとしてもなかなかの性癖レベル高いと思う。ただ、物語に必要な装置なのだろうなとは思ったし、特にそれ以上気になることもなく。でも全部が気持ち悪いかったという意見もあった。女性がないがしろに表現されているとか女子高生の性的価値云々。別にそれ自体は構わないと思う。個人的にはミーハー的にこの作品だけ見ても特に分からないのではとは思うけど。この作品単体は壮大なPVみたいな雰囲気だけど、まぁ合う合わないはある。秒速5センチメートルと対比で見るのが面白い、と思う。

 

けど、別に見ることを強制される訳でもなく、映画館でお金を払ったわけでもない自分が気持ち悪く感じるものを最後まで見て批判するっていう感性が凄いなと思う。得体が知れないという意味ではこちらの方が気持ち悪い。単に現実(ここでは作者とか社会みたいなもの)を嫌悪感で叩くために映画を道具として使っているのではという感想。村上春樹の女のいない男たちを批判した人達と近い感性のような気がする。

 

こういう感性だったら表現物が現実に悪影響を及ぼすという主張には整合性がある。だって当人たちがそうだし。僕の感性が正当だとも思わないけど、表現物に対する好悪って共感とか議論には適さないと思う。感性の交換くらいならいいけど、基本的には自分と表現物だけの関係でしかないような。僕は気持ち悪くて後味が悪い作品も嫌いじゃない。この嫌悪感は自分のものとして大事。まぁ嫌悪の種類が違うだろうけど。

 

そもそも共感してもらうことが良いことだという観念がないからこうなのか。

内省不干渉、でもないか。

 

そういえば、寝る前に好きを他の表現で言い換えるならなんだろうっていうのを考えていたのとも繋がっているのか。網羅的に言い換えることはできないだろうけど、1側面として、包まれるっていう言葉はどうだろうと。自然とか絵画とか演劇とかなんでも良いけど、好きなものに触れているときの感覚はこんな感じかなと。母性願望みたいな包容されるとか自分が肯定されるみたいな話ではなくて、もっと圧倒的に自分がいなくなる感じ。これを対人にできるのかというとなかなか難しいところだけど、包まれているから包みたいとかそんな風になるのだろうか。でも、やっぱり何か違う気がしないでもない。

 

眠くなってきたのでここまで。

 

おやすみなさい。

弛緩

内臓を労うためにあまり食べないことにした。弁当には昨日の残りのおかずとレンチン目玉焼きとミニトマト。さっさと寝て朝ごはんからは通常営業に戻っていると思われる。みょうがの味噌汁作れたら最高だけど、朝自分にどれくらいの時間の余裕と気力があるのかは分からない。

 

 

猛烈に本屋に行きたい。最寄り駅の駅ビルの中にあるリブロではなく、もっと大きな専門書がある田村書店紀伊国屋ジュンク堂か。何を目的とするでもなくぶらぶら立ち読みして、適当に出会った本を買うみたいな。まぁその前にいくつかすることがあるけども。そういえば派遣元の会社で申し込んだ無料講座のVLOOKUP関数も進めていかないと。定期的に滞らないと不具合が生じる仕様なのだろうか。というか定期的に滞る不具合が仕様なのか。まぁ人間なんてそんなものかしら。

 

今は時間を作ろうと思えばいくらでも作れるから滞るのはもったいない。まぁもう戻らないと思っていた部分の自分の感情の波が戻ってきつつあって、それをコントールするのが大変というのもある。観察するのは面白いけども。もともと欠けているものでない限り、いずれ回復するものなのかな。まぁ興味の源泉を考えると、なくなったのではなくて沈んでいただけなのかしら。

 

気になった判例を予定時間越えて調べたり、お風呂で1ずつ読み進めることにしている水滸伝を勢いあまって2章読んでしまったり。長々調べていた判例は問題とは関係なかったのは残念だったけど、役には立つ。

 

あと、なんだろう。今日はなかなか頭の回転がゆっくりしている。

 

仕事は忙しかったからか、逐一上司に応対を聞いて貰う対応ではなくて、1人である程度聞きとって折り返しにして、回答は他の人にやってもらうみたいなことになった。これこれで結構楽しい。会話の回路が使われると活性化していく気がする。

 

 

もう眠いので最後。

 

穏やかに過ごしていると、なんとなく穏やかじゃないようにしたくなるのは、きっと精神的恒常性なのだろう。だから、穏やかなのが通常になれば恒常性は逆転する訳だけど、なんとなく安心していると足を掬われてしまうという不安もある。この不安がどの経験則かっていうのもだいたい把握しているけど、人生は確率じゃないだから経験則なんて当てになるはずもなく。

 

とりあえず、しばらく肩の力を抜こう。

 

 

おやすみなさい。

 

使い分け

こんばんは。

 

大葉はすぐ悪くなるから、弁当用のもやしと舞茸のナムルに刻んで加えて梅肉と醤油を練ったもので味付け。さっぱりしている。メインは豚肉と人参とほうれん草の醤油味噌炒め。

 

 

さて。

 

行政法の過去問、解いていたら大したことないのに、なんでできなかったのだろう。って思うけど、なかなかやらしい問題ばかりだから、紙一重がズレた問題が多かった。選択式とか言いながら、全部の選択肢の正誤が分かってないと正解にならないとか、アイウエの全部の正誤を選択させて全問正解じゃないと正解にならないとか(3問で部分点はあるから優しいい)。その紙一重を埋めるためには、もっと考えるしかないのだろうなと。

 

結果より過程とか背景の方が大事。そのためにはいちいち問題を解くための思考回路を自分で辿る必要がある。つまり、アナログが大事。問題と結果を集めるとかの段階は外部に頼っても良いけど、過程に関しては省エネしてはいけない。

 

 

つぶやき場で見て面白いなと思ったのは、人に嫉妬するのは学習能力が足りていない、結果に嫉妬するよりも、結果を出した過程を学ぶべきというつぶやき。過程を人に伝達できるひとなんてなかなかいないような気がするけど、過程に興味がありますって言うと語ってくれる人も居なくはない。僕の興味は人の成功ではなくて、人格の成り立ちだけど。

 

やれやれ。

 

疎通に使う言葉って伝達と要求が主だって言ったと思う。だから僕は会話が苦手。でも言葉にはまだ機能がある。記録とか思考とか。主張もあるけど、主張って伝達と要求のセットのような気がする。

 

ただ、今読んでいる「ことばと意味」という現象学の本で、言葉のなりたちは、行動に依存しているっていうのを見かけて、人が発する言葉もそういうことなのだろうなって。依存しているというか、身体性に基づいているみたいなこと。

 

身体性っていうのは、現実的にどういう風に言葉を扱われたかないし、どう扱っているかとう紐付きの話。まぁどうやって言葉を覚えるかっていうのは、現実圏に依存しているし、意識的に離れようと思わなければ、そのまま。

 

あと面白いのが人は何をもって自我とするのかっていう翻訳本なのだけど、Iとmeが乖離するとややここしいことになるらしい。鏡に写った自分を他人とみなすのだろか。でも日本語圏だと主体としての自分と客体としての自分を分ける言葉ってないような。あとちょっと日本語で思ったのは、女性の主語はあまり変遷しないけど、男性の主語は成長段階で変わるよなぁと。これってどちらが優遇されているのかは分からないけど、主体性として面白い。名は体を表すというのは多分あるだろうし。

 

そうして、言葉ってなんだろうに戻るけど。

 

僕の日記に使わている言葉と僕が日常で使っている言葉はかなり乖離しているということ。なんでだろうって思うと、Iでもmeでもない言葉を綴れるのが日本語だからなのかなと。普通にブログとかつぶやき場を見ると、Iが満載だし、生活に必要がない時間をあえて費やしているってことは、何か伝達ないし主張したいことがあるのだろうって読むのが通常で、だいたいはそれでいい。

 

 

まぁ良いや。

 

内臓が疲れてきたからしばらくこういう日記は控えられると思う。

帰ってすぐご飯を作って、お風呂に入って、その後に書くっていうことになるのか。

んで、早めに起きて工程を実行するのがベストかなぁ。

 

 

ではでは、皆さん良い夢を。

 

おやすみなさい。

 

 

基準

こんばんは。

 

休日ご飯は惰性ではなくて意志によるからなかなか大変。とはいえ、今日のはなかなか良かった。そうめん。みょうがとトマトとおくらを乗せて、磨りごまとごま油と醤油と砂糖と顆粒だし。僕の料理スキルは共同生活レベルに至っていると思う。まぁ、共同生活に一番必要なものって。

 

さておき。

 

昨日の先生との脳内会話を具体的に書くと、先生はコミュニケーションとか駆け引きとか言いますけど、疎通って伝達か要求でしかないですよねって。哲学が好きだって公言できるるであればこの命題もきっと分かる。けど、こういう場は願うだけでは起こらないし、現実化したとしてもきっとそういう話にはならない。

 

なんでかというと、という話はかなり僕の本質に近い部分だから、筆が進まなくなる。

 

ということで、おいておいて、願いの外から現実化するっていうのは、確率的に見れば当たり前。思ったことではなかったことの方が起こるとすれば、実家のおばあちゃんは存命だってだいたい毎日思い浮かべていればだいたい大丈夫って。

 

全然筆が進まんなぁ。

ただ、ここに書いていることが現実的な自分としての本音なのかというと、そんなことはまったくない。現実で接している人がここの日記を読んだとして、僕の操作方法が分かる訳でもない。

 

法律の話って書いたっけ。ルールはそもそもなんのためにあるかっていうと、当たり前なことを分からない人が構成員に多いから創ったルールというか仕様でしかない。関係者が増えればややこしい。けど、結局は法律を創ったのも人でしかないという話。AIが法律を創った方の完成度が高いっていう話をつぶやき場でみたけど、確かにそれはある。でもこれを突き詰めたとき、ルールは完全に平等になる。ただ、完全に平等になったときに生き残れる人類はそんなにいない。

 

 

想像の話に戻ってくるけど、戻ってこなかった。

 

 

世界の終わりとハードボイルドワンダーランドで、色んなことを損なうにしろ、自分は自分

でしかないってフレーズはそうだなぁと思う。外に不具合を求める人が多いように思うけど、そうじゃない。

 

可能性でいうと、自分を変える、相手を変える、世界を変えるで言えば、一番合理的な操作はどれかという話。世界に対して不満を吐き散らすなら自分を変える方が合理的。

 

でも、資格試験でいう学習時間と繋げると自分を変えることには凄くコストがかかる。だから自分を変えずに世界を嘆く方がなんの労力もなくて手っ取り早い感はある。

 

僕は自分にかけるコストの方が大事だと思えるようになってきたから、世界に文句言っている人を見たらあなたは何をしているのって思う。

 

 

コストって現実世界ではかなりシビアなものだと思うのだけど、そんなに気にしている人は居ない。僕もそうだったし。

 

いやいや、関係とは気持ちだろうって説もある。でも気持ちとされているものこそコストだと思う。気持ちって、言葉と等しく、対価があるかどうかの話。

 

 

対価がある関係が良いのかどうか。

 

 

 

おしまい。

 

 

 

 

悲しみ嬉しみ

今日のアニメは姫ちゃんのリボン。なんとなく懐かしや。61話も見きれる気がしないけど。僕は姉と妹に挟まれて育ったか少女漫画もいっぱい読んで育っている。なかよし、りぼん、NANAが乗っていたのはなんだっけ。やや時代は移る。あぁクローバーか。タイトル忘れたけど、柘植さんっていう上司が出てくる漫画が結構好きだった。姫ちゃんのリボンって弓矢が出てくるやつだっけ。違う気がする。

 

まぁこういう意味での育ちってどうにもならんよなぁ。僕はウルトラマンとか仮面ライダーとかも見ていたけど、ヒーロー物に特にあこがれるみたいなことはなかった。もちろん遊戯王とかドラゴンボールとかるろうに剣心の真似事はやっていたけど、これはこれで同世代の男の子達と話を合わせるだけの惰性だった気がする。まぁいまだに少年漫画は普通に好きだけど。

 

少しずれたか。育ちっていうのは、兄弟配置みたいなところが1つ。異性の兄弟がいる人は、異性の本質の原初が兄妹だったりするだろうし。あと最初にどういうご飯を食べていたのかとか、作法に厳しかったかどうかとか。それを他人との関係にも求めるかは人格問題として、自分の人格がどう在るのかっていうのは物心つく前にだいたい決まってしまうということ。

 

人格の定義も難しいところだけど、自分がどう在るかっていう内向きなものではなくて、世界がどう見えるかっていう話だと思われる。ということは存在そのもののことだから内向きにしてみても変わらない。

 

こういう方向で言えば、僕の育ちは悪くはない。

ただ、それをとっぱらった存在として観ればたちが悪いこと極まりない。けど、これって世界の誰のせいでもないというところまでやっと来た。他責にはできないポンコツな部分があるということ。

 

さておき。

 

ご飯の話は省略。

 

仕事の話。

 

今日は繁忙期で、なおかつ人も少なかったから、上司が僕と同期の応対をモニタリングしている場合じゃないってことで、8時間自習だった。何某かでも人材を働かさないといけないってないって感覚がないこの職場は凄い。個人的にも同期的にもこれまでの仕事で出てきた事例とか知識を整備できたし、ここで遊んだ人格は自然に淘汰される空気を創ったまっさんと先生はかなりのやり手。ここまで新人に自由を創る余裕があるっていうことではない。新人は基本的に生産性には貢献できないのを前提として、使える人材にするために何が必要かって、優しく接しながら自発的に成長させることだろう。

 

僕はここの考え方とかシステムの仕組みとかはかなり好き。同期はきっと残るためにはこうしないといけないっていう仕事論で残ると思う。ここには、自分がつつがなく仕事を終えたいっていう最低限の観念がある。

 

もちろんそれはそれだけど、個人的にはそれだったらコンビニバイトの頃と変わらないから、その先がある。

 

という流れで、今日の仕事の終わり際、まっさんから麻雀クラブに誘われた。これって、合理性を観察する限り、おそらく硯は麻雀できるだろうだろうなって当たりをつけた発言だと観測する。で、もっと考えると、おそらくまっさんは僕に興味を持ってくれたんだろうなってことになる。

 

仕事の時間内でどれだけ好意的に接せられても、僕には何も響かないけど、時間外に誘われると全然違う。ついでに言うと、仕事と仕事外をきっちり分けているように見えるまっさんに言われるのが余計に。

 

何を言われるかではなくて、誰に言われるかという話。

 

今日は仕事を振れなくてすいませんでしたと言える上司が居る職場は非現実の範疇。

 

 

面白い職場だし、面白い人たちではある。

もちろん、まっさんと先生に限定しているけど。

 

 

今日は色んな録音を聞いていたのだけど、声だけの疎通における非言語も面白いなって思った。

 

僕は声フェチでもあるというかなりの変態性の塊。

という側面で見ると、先生とまっさんの声って色がない。もちろん相手の感情に沿うみたいなことは前提だけど、ちゃんと疎通している声。他の人は自分の方が知っているっていう色が滲んでしまう。これってこうですねって決めつけてしまう感。あなたこれ知らないよねって。

 

で、僕が唯一自分の声でマシだなって思ったのは高圧的側面がないこと。声のプロが研修してくれた昨日に誠実な印象がある声だ、あとは相手に安心感を与えるようにすれば良い、だった。

 

つまり、仕事とは別なところで、この人の声って良いなぁって捉える回路があるということ。

だいたい自分の録音を聞いていると、相手がフォローしてくれているのが分かる。声だけの疎通が不自由のは確かだけど、僕は言語だけでこれをやってきた質だから、実績を積めばどうにでもなるような気がする。

 

僕が発声という波に何を見ているかというと、疎通ではなくて、その人の個別的な声。

礼儀ではない。

 

 

麻雀界隈に戻るけど、その場を想定して、先生に対して何を発話するかっていう脳内会話が想定されてた。先生はコミュニケーションが大事だっていうけど、疎通って、伝達か要求の欲求がないと起こらないものじゃないですかとか。

 

こういう脳内想定会話って現実化したことがない。想像したことは起こらないという世界線で生きている。

 

これってなんなんだろうね。

 

一応メリットもあるのだけど、希望はそもそも叶わないものだっていう世界はどうなんだろう。僕の想像はほとんどないに等しいくらいくらいのものでしかない。こういう会話をしたら相手はどう反応するのだろうとか自分がその後どうなるかっていう未知とかそんなやつ。

 

僕の世界では願わない方が返ってくるものが多い。

 

 

 

これが良いかは知らないけど、これで生きるくらいがちょうどいいんだろうな。

 

おしまい。

因果

こんばんは。

 

台風は何処に行ったのだろう。逸れたのか、それともこれからか。冷蔵庫さん、今度は冷やしすぎてくれだした。まぁ強にしていたからだけど、これが通常運転なのかどうかはいちいち観測してないから分からない。

 

いつどうなるか分からないから長持ちしない食材はあまり買えない。だから、もやしはやめて豆苗にした。1回で使って栽培に回すと冷やす必要がない。とか言いつつ肉買っちゃたけど。なんだかんだ冷蔵庫さんを信用しているという。

 

さておき。

 

試験の結果が返ってきた。13点足らず。問題数にして5問くらい。壁だけど、ほぼ自分の認識と成果がやっと一致してきた感。運の誤差もいくつかはあるだろうけど、足りないところと力を入れていたところがちゃんと返ってきている。ということは、ちゃんと足せばなんとかなるということ。民法はちゃんと返ってきていたし、憲法は好きなのだろうなとか。繋がりで把握できていない行政法と商法が今回の不合格の原因だけど、自己分析通りだから、そういう風に足せば良いだけ。刑事系は何故かまぁまぁ良かったけど、整理するだけで頭に残る科目なのかもなと。ちょっと数学に近いところがある。人の生き死にに一番関わる法律が一番記号的っていうのはなかなかの皮肉。まぁ一番致命的な感情に関わるところだからこそ恣意的な運用がないように記号的な基準があるということなのかもしれないけど。

 

そうして、仕事の話も直結している。安心感を与える声質とは別に、自分が理解していないことを上役からの説明そのままに説明することでは相手に理解が得られないということ。なんというか、先生もまっさんも下の教育に対して試行錯誤した結果がこの教え方なのだろう。多分前世代にはきっちり研修で知識を入れてやってみたけど駄目だったから、一個一個の具体例の積み重ねでやってみようってことになったのだと思う。ただ、僕は繋がってないない断片的な知識ではあまりよろしくないという。

 

実際にシステムを使っている人が日常でどういう処理をしているのかっていう流れがないと、どういう風に不具合が生じるかって想像すらできない訳で。演繹と帰納どっちがどっちか忘れたけど、僕は具体例を積み重ねて一般に至るのは合わないような気がする。具体例は具体例でしかないそういう風に調整したっていう風にも言える。なんとなく具体例から想像できる外を見ているような。

 

 

ということで、本日の本題。

 

人の文章に惚れたとき、その人の固定された過去としての言葉に向いているのか、その言葉を生み出す人格に向いているのか。これって、別に文章に限らないと思うし、なかなか歯ごたえがある思考。

 

ここで好きの定義が出てくるのだけど、好きって対象が人か人以外かで随分色合いが違う。基本的には存在を肯定するで一致しているように思うけど、存在を肯定するだけでは好きにはならない訳で、それ以上の何かがあるはず。まぁ多用はできないし、多用するならもっと違う切り分けなのだろうなという程度で良いか。あぁ、もっと共通項で言えば、自分にとって価値があるものでも良いかもしれない。

 

創作物なら人格から独立の文章が好きっていうのはある。切り離す技術もきっと小説家のスキルの1つだろうし。まぁ僕は小説に関しての好きの定義は作者とさしで話してみたいと思えるかどうかだけど。面白いならもっとハードルは下がる。

 

ぐだぐだと書いているけど、要は人格に普遍性があるかということ。

なんかヘーゲルさんにも精神の普遍性っていうフレーズが出てきたけれど、これはきっとニュアンスがちょっと違う。

 

まぁ器としてのというか現実としての好き嫌いになると前提がちょっと変わってくるのだけど。まずは興味より自分にとって危険がないかどうかが一番の問題。っていう観点から見るとネットで声が大きくなる人は、ネットであれば大きな声を出しても自分の現実に危険がないっていう観念であって、人を見る視点は自分にとって利か害かっていう基準になる。この意味での好きは、自分にとって利があること。

 

世界が面白いのは、こういう基準で見る人にはそういう風に世界が成り立つところ。

自分を変えるって、努力するとか何かするとかより、ものさしを変えることではなかろうか。

 

人格の普遍性ってなくはないと思う。突き詰めた根っこみたいなものはきっとある。けども、人間関係において人が相手の人格の普遍性を見ているのかというとそんなことはない。だって自分も突き詰めてないし他人も突き詰めていないから、自分に触れる瞬間の他人にしか関心がない。だから同窓会とかが成り立つのだろう。僕が同窓会が嫌いだから偏見はあると思う。

 

人格の普遍性のほとんどは、自分の人格はこういうものだっていまとまりなのだろうけど、何かが変われば変わるものでしかない。例えば付き合ってみたら思っていたの違ったみたいなのもこれ。僕はこれでふられてきた側だから、人が相手の人格を見ているのってこの程度なんだろうなっていう経験則がある。もっと自分にとって都合良かったらよかったのにってくらいでしか捉えていない。卑屈観測。

 

人格の普遍性での関係があるとすれば、変化するものでしかないっていう共通認識があることではという矛盾。でもこれで継続する関係があるとも思えない。いや、だいたい同じスピードで変わるならあるか。

 

なんだかもともと思っていた筋からはずれているような気がするけど、おやすみなさい。