硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

はっぴーはっぴー

親族に令和生まれが加わった。妹に子供が産まれたとのこと。画像を送ってもらったのだけど、なかなか良い顔をしていた。母親からの伝聞だけど妹からではなくて妹の旦那さんからの報告だったらしい。妹が母親のことを嫌悪していて、旦那さんが仲を円滑にさせたいから気遣っていると解釈することもできるけど、実際は分からない。なんとなく母親の声はこのことに嫌悪している空気が滲んでいたけど、嬉しいことでも接することが疲れる相手には報告したくないだろうっていう感覚も分かるし、なんとも言えない。実際疲労でそれどころではないっていう可能性もあるし。

 

そうして、こういうときにどういう声を送るかというと、一般的にはおめでとうだと想像する。確かに、おめでたいことではあるけれどなんだか他人事感があってこれだけではふさわしくないような。お疲れ様との比率が7対3くらいと6対4くらいの方がしっくりくる。旦那さんの感じだと妹を充分ねぎらってそうだからあえていうことでもないというのと、出産日の忙しさとか手続きの雑多は知らないから、送って良いものかという躊躇いと。

 

なんとなく冷静っぽく書いているけど、かなり喜ばしく感じている。滲んでいるかどうかは知らないけど。そうして、おそらくメッセージは送ると思う。そして、送った。文面を見る限り結構元気そうだ。そうして第一子の自慢が入ってきている。良き。

 

姉兄妹(きょうだい)の子供というと、姉の第2子に自分の名前を使って良いかと聞かれて、お好きにと答えたことを思い出した。姉が大学で東京に行ったあとは特に接点も会話もなかったのだけど、嫌いな人の名前なんか付けたくはないよなぁと思うと、名前を使ってくれてありがとうって言えたらよかった。漢字自体が好きだったらその漢字を使った事後報告で良い訳で。自分の人格を自分より知られていたのか。今や音信不通だけど、親族だから戸籍を追って最後に登録してある住所は特定できるから、まだきっと縁はあるだろうな。

 

いつか、我が家の状態を話した人に、その離島状態を繋げることができるのはあなただけだっていう趣旨のことを言われたのだけど、この予言は実現されるのかもしれないと思ってきた。この世界は縁で構成されているとしたら、生まれ落ちた家族っていうのが最初の縁で。それだけでありがたいこと。妹はなんだかんだ可愛いと認識しているのだなと思ったし、人格的にはともかく家族親族には何か内側と思っている節があるのだろうなと。

 

妹夫婦は、令和家族のモデルケースになりそう。

 

穏やかさには、ありがたさがワンセットじゃなかろうかというところに至ってきた。ありがたやーありがたやー。

 

しかし、これを、他人の家族でもそうあれと押し付けることは違う。そういう善意とか道徳の押し付けみたいなことをする人は人情があるってされるけど、僕はそうは思わない。鉄の理性っていう言葉は刑法について書いていた日記で評されたのだけど、この流れで、共感について考えていた。

 

 

共感能力って別に人間だけのものじゃないっていうのは、ペットを飼った経験がある人は分かるはず。で、共感する人が優しいっていう風潮があるけど、これってあくまでその感情を持っている個人のものであって、そうされた相手が共感されたことにありがたがる必要はない。分かるよーって言われて嬉しい人ももちろんいる。自分が感じていることが他の人も感じていることで救われるという層。ただ、これの危険性はだったら世界もそうだって拡大してしまうところ。

 

 

僕は今ちょっと流行っている、感じやすい人(SPSだっけ)みたいな傾向があるから、共感しようと思えばいくらでもできそうな気がしないでもない。けど、共感が何を救うのかっていう観点だと、誰も救われない気がする。

 

例えばというか、僕の世界で最近一番見えている、悲惨な事件に対して被害者が可哀そうだって評する人。可哀そうだって評した人への被害はその時には終わっているし、同情されても本人がありがたいと思えるどうかは分からない上で、それを公に表明するのなら、これはあくまで自分の感情だって注釈を入れないといけない。そうしないと、被害者が可哀そうだと思っていることが一般化されてしまう。つまり、犯罪被害者は可愛そうな人だっていうシールが貼られてしまうこと。

 

エゴではないっていうことを含めて言う同情とか同調は、胡散臭くて仕方がない。で、この胡散臭さはきっと被害者個人にも響いている。だから、同調と個別化のジレンマが起こる。共感が欲しいのは女性が多いっていうのが定説みたいだけど、男もそんなに変わらないと思う。ちょっとズレてるけど。

 

今、獣の奏者エリンを見ているのだけど、鋭さは時に災いを呼ぶっていうフレーズが流れてきて、まぁそうだろうなと。ここのポイントは鋭さと優れているイコールではないということ。

 

 

 

感情ってなんだろう。

個人的には、誰とも共有できないものって定義したいところだけど、言葉にして共有できるものを感情としている人が多そうに見える。でも、言葉にされた感情ってもう当人にとっても過去で、当初のものとは違う。継続した感情がないとは言わないけど、継続する感情ってかなり強度な体験があって、今だとPTSDとかの診断が出るはず。

 

つまり、そうでない感情って、生きている限り変化するしかないもの。痛かった、苦しかったっていう感情は、反芻する度に違うことになる。増幅したり薄まったり。

 

だから、感情で繋がる関係は危うい。

僕も自分の感情を直の関係で重きにしたときもあったけど、これってなんの救いもなかった。感情だけしかない関係は地獄として良い。

 

この意味が分かるかどうかが通じるかどうかの分水嶺

 

だから、共感が胡散臭いと思っている。

あなたの感情は分かりますよみたいなてきとーな括りで世界を捉える人とは付き合いたくない。同じ体験をしていても変わらない。そういう風に同調できるなら、まだマシな層だと思う。

 

僕は自分の感情に対して分かるって言われるのが嫌だから、自分のことは普通の関係においては全然話さない。そんなことよくあることだって自分の固有の感情に評されたら相手に不信感しか起こらないし、だから何が解決されるかの話だし。一般化して属性に嫌悪を持つのは勝手だけど、ということは自分も属性なのかという。

 

ところで、義務教育に宗教教育を入れたら良いっていう提言があった。

たしかに、法律っていう絶対的な網の内側にある行動のマナーっていう面では道徳教育は大事。で、ここにイスラム教徒の道徳とはとかキリスト教、仏教も含めて教えるっていうのはありだと思う。ただ、現実的な側面として政教分離とは関係ないけど、教師がある宗教に帰依していたら、そこ寄りが強くなって事実的な影響が強くなるだろうなと。義務教育時代の教師は親と同じくらいのレベルで人格が学習されるから、教師がどの信仰であるかっていうので影響が否めない。

 

けど、影響は当たり前に受けて育つわけで、そのままにするかどうかは選択でしかない。

産まれながらに宗教の洗礼をするっていうのは嫌だなぁって思っていたけど、これって特に一般社会と変わってないような。

 

まだ書きたいところだけど、とりあえずおしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次世代

全然勉強に身が入らないのだけど、これはこれで新しい興味に向いている感じで楽しくもある。別に知識はなくならないし、収集癖は無限だし。昨日の日記は割と尖った意見書いているなぁと書きながら思っていたけど、読み返してみるとそう大して変な見解でもなかった。いつもそんな感じ。肩書なんてない方が良いのかも。

 

演劇の公募は通ったので、ここから本名で文章をネットに載せる。僕は自分の本名の音と字面が大好きだから、これはこれで新しい境地で楽しい。おそらく文体は変わらない。というか、この文体以外で書ける気がしない。

 

 

文体というか言葉の話で、Twitterで、身長がABCDEの順で高いときに、Cの次に高い人は誰かってアンケートがあった。本来の語用的にはBなのだけど、僕はぱっと見Dかなと思った。そして、結果の振れ幅はDの方が多めのほぼ半々。このアンケートをした人は読解力の低さを問題にしているのではない。日本語圏内にもブレがあって、むしろ個人個人で遣っている日本語が違うっていうって主張していて、好感が持てた。

 

この観念はずっとずっと考えていたこと。何故違う言葉を使っているのに通じるか問題。これって人間の本質にも関わっているかなぁと漠然と。

 

ところで、自分が読める小説の幅はどんどん広がっている。歴史小説はどうも駄目そうだなぁと食わず嫌いをしていたときに、前の職場で女性の方に歴史小説以外はジャンル問わず読みますって言ったら、男性こそ好きそうだけどって言っていたときに、同席していた男性が水滸伝楽しいって言っていたところから読み始めた。

 

この女性の観念は、きっと男が活躍する話を読むほうが男性は楽しいだろうっていうのがあったはず。確かに水滸伝は、女性が結構蔑ろにされているような描写はあると言えばあるけど、男だって死ぬし押さえつけられているし、単なるその時代の役割分担としか読まないし、登場人物に自分の性を投影させないから、歴史小説って、精霊の守り人とか図書館戦争とかと似たところがある。

 

そうして、言葉には観念がまとわりつくことになる訳だけど、伝わらなかったことを他責にしてしまう精神は、言葉について誤解していると思う。そうじゃなくて、伝わらないことは自責だって思える人はどれくらいいるだろう。これって、きっと自分の中の当たり前が他人にとっても当たり前だって思える人で、言葉を押し付けてきた層。

 

これが、男とは女とかっていうざっくりとしたお上の目線の威信を借りていたメリットとデメリット。こうやって言葉に含まれた固定観念もセットで使っていたから、その粗が私的されている。

 

 

この文脈で考えると、自分が読める文章とか、聞ける言葉とかみたいな意味で、疎通できる人の世界しか見ていないのかもしれない。疎通できる人って、他人は他人だって把握している界隈なのだけど、そんなに居ないような。小説界隈ではいっぱい居るけど、少なくとも他人を下げて自分を正当化する人は全然居ない。

 

もちろん相対化って大事な視点で、でも、これは向上を前提としないと成り立たない。なんでかって、下を見て安定する精神は地獄でしかないから。向上でなくても良い、変化とか。

 

 

つまり、日本人同士でも外国人として関わるのが本筋で、そうなってくると、てきとーに括ってきた自意識を細分化させて語らないといけなくなる時代。主語を大きくするのは劣等感の裏返しだけで、そこに対する反発があるみたいだけど、要は、個人が個人であるべき時代になりそう。個人で語るなら自分の属性はなんの後ろ盾にもならない、それでも語るのかという話。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

暗黒面

今日はコンビニで北家の塩焼き買ってきて、だし巻き卵を作って大根おろし多めにすって兼用にした。大根おろしは先の方が好き。サラダはレタスとワカメの自家製ドレッシングでチョレギサラダみたいなやつ。実際の物は知らないけど、にんにく、ごま油、塩コショウ、砂糖、煎りゴマ、酢。お酢を使わなかったら砂糖は要らないのだけど、酸っぱさをマイルドにするため。

 

 

さておき。

 

早く起きる習慣をつけようと早めにとこについたら、何故か二時間くらいで目が覚めて、あとは眠らなくて、昼間に断続的に寝ることになった。今日そうなったら、勉強することにしよう。大丈夫な気がするけど。インプットより自分の武器と薄いところを点検することの方が大事だけど、不安が勝るとインプット過多になるよなぁと。

 

刑法界隈がやはり騒がしいけど、理性的な弁護士さんは淡々と語っているし、理性的じゃない弁護士さんは、感情論で話しているような気がする。理性的かどうかっていうのは、結果が不当である、からして過程がおかしいってなるかどうか。多数派の感情だけで罪になるっていうのは、歴史を逆行するもので、魔女裁判の教訓はどこに行ったのやら。

 

新人弁護士さんと一般の人とのやりとりで思ったのだけど、性行為自体は合法なことが前提とされているのが今の強制性交罪等の思想であって、虐待とか痴漢といっしょくたにするのは違うよなと。痴漢も男が前提になっているからそのうち死語になりそう。

 

つまり、自由意志がある主体同士の関係においての性行為は両者が伴ってするものだから合法であって、そこに暴行脅迫、抗拒不能心神喪失みたいな、相互性を壊すことで犯罪になるという、他の犯罪、例えば窃盗罪みたいな、勝手に財産を取得したら基本は犯罪になる類型とは違う。合意なき性行為は犯罪だったとしたいっていう層が声を上げている。これは、完全合意と、今まで強制性交になっていた類型の間のグレーゾーンを全部犯罪にしようっていうことで、被害者目線になっているようだけど、公がそこに介入することを許すことになるし、感情が犯罪を決めるっていうっていう人民裁判を認めることになる。要は、男からでも是だから、民事っぽい泥沼の内輪もめが刑事裁判に持ち込まれるということ。

 

民事だったらありだけど、民事の方がもっと私人間のプライベートの方には干渉しないっていうことになっているから、結婚して不倫でもない限り、性的価値はなかなか認められないと思う。

 

これって、国が被害者に冷たいみたいな話じゃなくて、犯罪とするには、不貞行為とはっていう、人の自由行動を最大限認めようっていう本当の基礎からのリスクでしかない。国家が人の性行為を監視する社会ってかなり気持ち悪いような。

 

ただ、最近の判決では親と子の性交渉問題もあったから、一概には言えない。個人的にも気持ち悪いけど、これで子供の人格が壊れると決めつけてしまうこともなんだかおかしい気もする。

 

これって、厳罰化する前に、義務教育時代に、性交渉なんて人間関係の関わりの1つの方法でしかない。ただ色々リスクあるから避妊とか性感染症のリスクは減らせ。子供はその延長だけど別に直結してないし、性を大事にするかどうかは自分次第で、当人の価値は全然変わらないっていうのを教えれば良いと思っている。性は人の価値の一側面でしかないってなんで教えないのだろう。

 

痴漢云々も、触りたい人はきっといっぱい居るだろうけど(好意を持った対象に触れたいっていう衝動は男女ともにある)実際に触れるかどうか、行動に移ったらどうなるかみたいなことを教えれば良い。

 

昔はお触りできたみたいな話もセクハラ界隈で聞こえてきたけど、これっておおっぴらにできたのが男というだけで、暗数としてはどっこいどっこいな気がする。女性の性が、スキンシップとか性的加害で脅かされる観念だとしたら、男性の性は、経済力とか妻帯についてなじるみたいな対称性があったし、その外に若い男を触るとか地位を背景にしたショタコンもあったはず。暗数っていうのは都合の良いようには使えない。

 

結局は、変に禁忌にしているからおかしなことになっているという説。抑圧された人は抑圧されたことには反感を持っているけど、この反感を次世代は解放しようとは普通は思わない。自分がしんどくあった分、しんどくあれみたいな思想の方が主流のように見えるし、日本人一般とは言わないけど、性ってなんだか気持ち悪いものだっていう観念は一定数あると思う。知らんけど。

 

未知への畏れと興味はワンセット。

 

あと、刑法でいうと、精神障害の犯罪の被害者が、犯人は人間だからちゃんと罰してくださいっていう命題もある。これって責任能力の話なのだけど、確かに被害者目線で結果だけ見ると良くわからない観念。僕もそんなに分かってない。でも、ちゃんと犯罪であることを認識できて、なおかつ、それ以外の選択肢があってもあえて犯罪行為をすることができる能力っていうイメージ。だから、別に人間じゃないから刑罰がないわけではない。それだったら未成年も人間じゃないのかっていう話になるし。まぁここはもっと考えていきたいところだけど、変に難しい。

 

こんなの結果悪い論で言ったら分かりやすいけど、個人的関係ならまだしも、社会前提で共有するってなると危険すぎる。別に私的な関係でそういう風に考えるっていうのは分からなくもないけど。僕も自分の経験則と照らし合わせて無理だっていう考え方は分かる。けどこれも。

 

ここまでの流れは、なんだか他人に期待しすぎだろうっていう感じ。

 

 

そうして、聖書物語をよんでいるのだけど、モーセ十戒は有名で、民衆がしょうもないっていう。誰かに期待するっていう意味では等しい。モーセの指示で動いた民衆はモーセにやたらと文句を言っていた。原典とどれだけ乖離しているかは知らないけど、救ってくれるのだったら救ってくれよっていうおこがましさは、歴史は関係ないらしい。

 

 

救いなんて外からもたらさないし、救いが欲しいなら戒律をっていう観念は今必要な感覚なのかもしれない。何かを願うならそれなりの供物が要るだろうって。

 

そもそも、供物と思う関係が正しいっていう関係が一般的におかしい。

 

でも、よくよく考えると、幸せをあえて評する人ほどあんまり満たされてないし、逆もしかりだし。顕示欲と安心感は別物ではあるけれど。

 

 

最後、まだ色々あったけど、書きたいこと忘れた。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

はしごの先

歯医者。抜髄したところの治療は終わって、他の部分の治療も少しやってもらった。歯そのものは合っていたから大丈夫かと思ったら、同じ歯に二か所虫歯があって、表面の軽い方を治療してもらっていたらしい。染みるのに削っている時に痛くないはおかしいなと思ったけど、まさかもう一か所あるとは。他の歯の被せ物が取れているところも忘れられていて、レントゲン撮ったはずなのに、これで治療は終わりですって言われた。ちゃんと言って継続してもらうようにしたけど。印象論だけど、治療ってあんまり実入りがないのかなと感じた。それよりも定期健診とか指導みたいなものの方が補助多く出るし楽だしっていう予想。単なる主観に基づくものだけど、何年か前行ったときのこの先生はもっと積極的だった気がする。多分覚えてもらっていないけども。

 

さておき。

 

なかなか緊張してきた。公募の連絡は明日だし、日曜日は試験だし、その次の日から新しい仕事だし。我ながら詰め詰めだけど、緊張感がある方が生きているような気がする。刺激っていう意味ではインスタントなものに流れても良かったし、流れていた時期もあったけど、どちらかというと前者の方が変人指数は高い。閉じる方向と広げる方向。両方向の性質を持っているのが人間だろうけど。買い出しに行って帰ってきたらくだんの午前3時洗濯機の隣人の部屋から何かを炒めてそうな音が聞こえていて、ほっこりした。料理は炒めるのが基礎だし、そうやって拡げていくと良いなと。ほんとうは実家でも家事をやっていたかもしれないけど、あまり関係ない。関係ないっていうのは、干渉するつもりがないから外に見えるものだけでその人を捉えても問題ないということ。昨日のわずらわしさに同情を求めたいなら、主語を大きくすると良い。非常識な人はとか学生はとか、一人暮らしの男はとか男はっていう風に語ると、自分の経験から乗っかってくれる人の賛同を得られるはず。

 

今日のご飯は、豚肉の切り落としに塩コショウ、酒、生姜で下味付けて片栗粉をまぶしてニラと人参と炒めて、醤油、砂糖、味噌で味付けしたものと、細切り大根を塩でもんでちぎったレタスとサラダにして、青じそドレッシングといりごま。ゴマとしんなりした大根の組み合わせって昔給食で嫌いだったなますっぽいけど、今や特に問題ない。でも確実にまずかった経験は残っている。

 

自我発達論の話で教育現場の話が出てきた。

「人は人を、育てられたようにしか育てられないし、教えられたようにしか教えられない」

 

とのこと。一般論的にはだいたいカバーされていると思う。自分の小中高の経験則でも分かる。観念を封殺することに重きが置かれていたような。そうやって画一化した枠の外に関しては全部禁忌とする。性教育に関してもきっとそう。婚前交渉を戒律として禁じていないんのだから、そういうことは確実にある。先に確実な避妊の知識を学校で教えてしまえば良いのに、それをやらないから、性に関する知識が歪になる。スローなんとかの方がよほど健全。そうして、そうやって禁忌にされた層が教えられたように教えるしかないからより変なことになる。色々思惑があるのだろうけど。抑圧された自我形成期が大人になって解放されたら変なことになるのはかなり真理に近そうなのに、抑圧を拡げるような風潮。

 

全然関係ないけど、夏目漱石さんって、嫂コンプレックスがあるのかもしれないとふと思った。嫂に恋をしていた言うことではなくて、何か救いがあったのかもなという程度。本当に居たのかどうかは全然関係なくて、そういう立ち位置の女性に羨望があったのかもと。自分を害さないし求めないけど、受け入れてくれる他人みたいな。知らないけども、こう解釈すると夏目さんはなかなかの現代人。

 

 

哲学の話。

 

僕が哲学書を全然読んでいなかった頃、自分の考えを語っていた日記をある人がかかっているカウンセラーだかに見せたら、この考え方は、ある時代の哲学の考え方だって評したらしい。それに対して、やっぱり同じように考えている人は居るのだとは感じたけど、だからといって別に救われたりはしなかった。

 

素朴に考えると、ある時代の思想家の考えって、その思想が出てくる背景があってそうなっている訳で、それに今を立脚させたところでズレるに違いない。なんとか主義とか、考え方に名前を付けるとか。だから、そういう思想を後ろ盾にしている人はなんだかうさんくさいと見てしまう。それを語っているその人個人を見るから。

 

 

次の哲学はなんだろうと考えると、言葉の意味の多層化かなって思う。

 

今までは、一応主流の価値観があって、それを正当として言葉の観念が規定されていた。だから広辞苑とかコトバンクとか国語辞典が言葉の意味を決めるのが普通だった。けども、これって、ある普遍の文化を前提とした決め方だったから共通項があったから、ここからはもっと同じ言葉でも違うように使われるってことが顕在化すると思う。例えば、男とか女とか結婚とか、文化圏が今までの層は、ぼんやり捉えるだろうし、マイノリティの層は体制に対する嫌悪を伴って使っているかもしれないし。

 

これって、多数派とか少数派とかの問題でもなくて、皆自分が発する言葉は完全に伝わるものだと発している。どう考えてもズレているのにその齟齬はないものにしてきたけど、そのないものにしてきたツケが、個人に出てくるのが次世代なはず。皆が個人になる。個人的には、可愛いっていう単語をいっぱい思い浮かべているのだけど、発するまでにはいかない。語用が変わればあるいは。

 

この辺りの意味が分かるかどうかはきっと、次世代脳か否か。優劣ではない、念のため。

可愛いっていう言葉は古文のあはれより細分化されているような。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

延長

最寄りのコンビニに新しい店員さんが入っていた。トレーニング中の初々しさは可愛らしい。上がなかなか濃いから定着するかは不明だけど、雇用に関してもあまり不自由していないというなかなかの加護。大学入学の直後だから、どこも新人さんが多いけど、単純に凄いなと思ったのは、最寄り駅のスーパーの新人さん。レジ打ちは単純作業だとされているのかもしれないけど、かなり人柄が出る。セミルフレジとかレジ袋有料化とかで、1人1人の裁量が広くなったというのもきっとあって店員の負担も増えている。生ものを袋に入れてくれる人とか、袋入りますかをどのタイミングで聞くかとか、色々あるけれど、その人が凄いなって思ったのは、会計が終わった後のかごの持ち手を上げて持ちやすいようにしてくれたこと。これは数ある観察してもなかなかないし、先輩方もやらないようなことをあえてやったというころは、自分が客の視点でこうしてくれたら嬉しいなっていうのを体現しているような。先輩方にそこまでしなくて良いよって言われてそうだけど心遣いレベルがすさまじい。あと、コンビニの早い人に対してはこっちが店舗合わせて早くするとスムーズとか。単純作業と思えばそうだし、そう思わなければそう。世界はそういうもの。

 

さておき。

 

なんだろう。なかなかうまいこと睡眠が取れない。今日は寝られないなぁと思っていたら午前3時に隣人が洗濯機を回し始めて、たぶん洗濯忘れなのだろうなとは想像するけど、妨害甚だしい。けども、その前にちゃんと慣れていればきっと起きることはなかったわけで、自分が悪いという捉え方もある。常識非常識ではあまり判断したくない。最初に思ったのは、さっさと引っ越せるようにならねばということ。

 

現実的に人生は有限で、関わる人っていうのは限られている。関わりたい層には自分から動かないと無理だけど、関わりたくない層に対しては、自分から離れるで良い、というかそうじゃないと、いつまでもそういう層に捉われるだけ。僕が性善説でいられるのは、たまたま最初がそういう世界だったからというのはきっとある。SNSで世界が広がるかっていうのも、そんなことはなくて、同じような仲間が見つかるっていうのはあるだろうしそれは救いだけど、なんとなくその精神性を維持するような偏向になっているような気がしないでもない。要は、結構運ゲーみたいなところがある模様。

 

他の誰かないし自分がやっているということを根拠に、個人的な関係の相手もそれをするのが当たり前だっていうっていうのはある意味依存か従属だよなぁ。もっと自分を研ぎ澄まさねばっていう方向に行かないといけない。自戒。

 

 

ハッピー論でいうと法学系の復習を書くのが一番良いのだけど、なかなか難しいところ。だって、ここも限定された世界であって、人を経済活動とか家族関係で抽象化しているものだから。

 

法学教育が横断的になされればいいと思う。刑事裁判と民事裁判は違うとか、憲法は法律じゃないとか民法はかなり賢い当事者を想定しているとか、商法の至上は経済的な富の最大化だとか。あとは、民法と税法はセットでやらないと現実にそぐわないだとうって。これができないのって、法律学がそうなっているっていうより、たぶん学者の専門分野の分化っぽい。もちろん、どの分野だって歴史とか輸入とかで成り立っている訳で、分からんでもないけど。

 

数学と物理は繋がっているけど、繋げて教えられないジレンマも近いのかな(想像)。

物理学もやりたいけど、なかなか大変。いずれじゃあ遠い。

 

 

今日はすんなり眠れそう。

もっとあやふやな言葉を使いたいなぁ。

 

あやふやだと、想像が拡がる。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸福論

野菜不足がたたってきたような気がしたから、昼はオムライスにしようと取り掛かった。鶏肉がないから油揚げにして、長ネギ、人参、舞茸、カットトマト缶残っていたからそれを加えて、ケチャップ、ウスター、コンソメの代わりに鶏ガラ顆粒。そこまでで力尽きて、卵は使わなかったけど、トマト缶のおかげでチキンライス感もケチャップライス感もなく、さわやかな味だった。十分な補給。夜も豆腐サラダと鯖缶とトマト缶ともやしの炒め煮。野菜が大事。というより、素材と近い料理というのが栄養源になるという説。あとはショートカットをしないものを食べているのかもしれない。

 

最近の菜食主義者ベジタリアンとは呼ばないらしい。多分。主義が違うから違う名前なのだろうけども。動物には痛覚があるから可哀そうみたいな主張から野菜を食べるのだっていうのを見たけど、植物に痛覚がないことは分からないだけで、違う階層で痛みはあると思う。何かで見たけど、植物は全部自分が使って良いのに、地球に奉仕しているとか。まぁ、植物の観念はきっと人間には不可視だというのは違いない。

 

今の社会に認められている行動を狭めるものは、ほぼ宗教と言って良い。不自由があることが何か生きるための後ろ盾になるっていうのはきっとある。自分が正しいことをしているっていう感覚。

 

昨日の日記からすると、こうやって狭めることが正しさを主張する原理になる。自分の嫌悪感に賛同が加わると正義になるとその外は要らなくなる。ただ、この思想の果ては、もっとしたたかな人に利用される十字軍とか聖戦とか、日本で言ったらなんだろう。差別表現だって言って消されている言葉達とか、強制性交等罪へのデモとかか。ちょっとズレているようであまりズレていない。

 

たまたま無罪判決が連続しているけど、性犯罪に甘い国みたいなのはきっと判決文を読んでいない。デモ参加している人が判決文を読んだのかは怪しいところ。最新では、本当に性交があったのかっていう事実認定が問題になっていて、兄弟がいっぱい住んでいる壁も薄いところで拒否している声が他の兄弟に届かなかったのかで、不自然だから認定できないっていう趣旨だった。例えば、実際に娘が父親の子供を何人か産まされてどうしようもなく親を殺してしまった事件は憲法やったら必ず出てくるのだけど、親の命は他人の命より重いっていう刑罰が刑法にあった時代にそれじゃあ減刑しても執行猶予が付けられないから憲法違反だという判断。

 

被害者視点から見てしまうと、容疑があること自体が罪っていうのは分からなくはないけど、裁判官に人権教育をという見解は的外れ。人権教育をしていたら刑罰が最大の人権侵害っていう価値観が醸成される訳で、むしろ裁判官の方が分かっている。警察検察も公務員だけど、守るところが違う。国家が一番怖いのだよ。

 

 

さておき。

 

今日はエネルギー補給日だったらしく、たまたま見つけたイチローさんの引退会見を文字で起こした記事を見ていた。いくつか見た限り、二次情報ってそれを再現した人の主観が混じっているけど、なかなかスッキリした。ハッピ-になるためのもう1つの可能性。将棋の羽生さんも近い境地な気がする。あと、樹木希林さんとか。

 

ともあれ、自分の可能性はどんどん狭まっている。違うな、絞られている。

要は、だいたいのことをうっちゃって好きなことだけするというベクトル。この好きなことっていうが、楽なことじゃなくて、楽しくて自発的にしんどいことをするというもの。強制されると不満が出るのは当たり前で、どこかにはけ口を求めることになる。それが匿名で言いやすくなったっていうのはあるだろうけど、だいたい生きられる世の中で不満を飲み込みながら修行するようなメンタルで生きられる人はなかなか居ない。

 

結局のところ、まだまだ修行が足りないなと自覚したという話。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

理想郷

やっと動けるようになった。何が原因かは分からない、こともないけど。なんというか、どうやったら世界は平和になるのだろう、みたいな漠然とした思想。おこがましいけど、考えるのは自由だから。ともあれ、これは別に内心の自由みたいなこともない。自由って、「何から」っていうのが前提になる。だって、全く不自由じゃない状態なんて完全な三角形みたいにイデアの中にしかない。自由の観念がいつ生まれたかは知らないけど、本来は国家から解放されるというところにあったはず。だから、個人同士の問題で自由って言いだすと、何か相手からの抑圧であるのが前提のようになる。

 

単純な嫌悪感が内心の自由に含まれるみたいな話を見たのだけど、憲法上の思想良心の自由にそういったものが含まれないのは定説だから、道徳上の内心の自由であって、対象は社会だと思われる。子供を教育するときに被差別対象を含めあらゆる嫌悪感は悪いことだって教えるのはアウトで、嫌悪感は悪いことではない、でも、現実化の仕方はわきまえないといけないっていう命題に子供は放っておいたら差別的になるとか、道徳的な良し悪しは大人が分かるから嫌悪感自体を矯正しないといけないとかっていう反発が起こる。でも、これって子供が価値観を育む時の一番の要因はその子供の周りにいる大人という点を見落としているような。そうして自分の善悪の判断も自分の物ではない承継されたものがあるということ。自分の判断が正しくて相手にも強制できると思えるような人はきっと承継してきた自分の価値観を疑うところが自分の人生上なかったのだろうし。

 

あと、自由を求めていると標榜している人達の一部が匿名で解放された仮想空間である種の監視社会と、個人の好意を分断する田舎社会みたいなことを構築していること。現実にどれだけ影響あるのかっていうのは分からないけど、なかなか危うい。女性にAEDを使用すると命を救ったとしても、セクハラで社会的に殺されることを危惧して緊急時にも躊躇ってしまうみたいな風潮がこの界隈にあった。そんなことないだろうけど、良いことをすることにリスクがあるっていう雰囲気だけで人の善意はきっと死ぬ。僕は性善説寄りの考え方だけど、女性全体が男性に嫌悪感があるって風潮を見てしまった人は、女性への不信感が募る。そして、女性の救命割合が減る。という感じだけど匿名性を使っているのは男女平等で、あの界隈に居ると人間不信が募るだけという。

 

僕は今のところ守るべき社会的地位がないから、AEDの件に関してそんな事態が起きたらなんでもやると思うけど、これが結婚していたらとか、子供が居たらとか守るべき世界があるんだったら、どっちを優先するのか比較しなきゃならないと思う。

 

何か大きいもので語ることが好きな世界だけど、これって、田舎の閉塞感と似ている。皆やっているっていうフレーズは母親の常套句だったし。幸いにも僕は姉とか妹ほどは家のことをやれとは言われなかったけど、そのやり方は見ていて気持ちいいものではなかった。この気持ち悪さを見て、自分が気持ちよくなるために下に同じことをするっていうのが通常ルートだった。変わりつつはあると思うけど、誰かを下げることで留飲を下げる観念っていうのは、そろそろ脱却して良いような。

 

ともあれ、もっとハッピーなことを考えたいのだけど、何かへの抑圧とか差別とかを考えていくと、何をしていても不謹慎みたいな感覚になる。それじゃないとしたら、人は世界を狭めないとハッピーになれないのかもしれない。結局は、社会とか国とかではなくて、直に接する人という説。

 

 

僕としては、個人的関係においてはかなりハッピーだと思うのだけど、これはなぜだろう。

 

 

おしまい。