硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

英語の話もしたかった

 

 

無駄に自分を悪者にするのは鏡の話で言ったら、自分が他人を悪者にしているっていうことになって、自分にうんざりする。どっちが先かっていうのは分からないけど、基本的に自分を許していないという気がする。自分の本音がよく分からない。他人に自分を許していないっていう側面もありそうで、ここが自分の柵の本質なのかもなと。

 

 

ともあれ。

 

書の比率をずらして、死について! の読書量を上げた。まだ行くかどうか決めきっていないけど、あと3日半で残り500頁くらい、読み切っておきたい。予約するよりは、当日ふらっと行って当日券で入場してみたいのだけど、作法が分からないからきっとどぎまぎする。予約と当日の差額が主催者に入るのかなって思うとっていうのもある。いっぱいで入れないっていうこともあるのかなぁ。そうなったら京都でいっぱいやって帰ろう。電気ブランで。

 

 

さておき。

 

 

死の話の前に、スーパーと出退勤ラッシュでの人の動きから見る人の意識の変化。

昔からそうだったっていうのもあるのかもしれないけど、僕がこれを知覚したのは去年くらい。書く機会が無かったから、1人悶々していた。人の流れってだいたいまとまっているのだけど、流れを乱すの個人単位ではなくなってきたなと。

 

スーパーで言ったら、スーパーが思う動線を辿りながら自分の目的のとこまで行くっていうのが流れだったはずで、僕は流れを避けて行っていたけど、流れを避ける人が増えすぎて混雑しだした。気の所為なのかなぁ。

 

 

やれやれ。

 

原案の本は、アメリカだから、アメリカとしての死っていうのもきっとある。

銃がある世界は、ない世界よりもきっと死が近い。ということで、ちょろっとアメリカの銃社会について調べてみた。個人的には薬局でロキソニン買うくらいのレベルかなって。たしかに買うためには審査があるらしい。審査自体は厳重みたい。けど、個人間の譲渡は認められるとのこと。ここも厳重だってなるけど、非合法の人が集めることまでは規制は届かない。という意味では日本で言うと、銀行とかの口座に近いかなって。しかし、危険度が全然違う。そりゃあ、自衛のために銃がないと困るわなって。自分が住んでいる所の鍵だって、銃が在ればぶっ壊されるって考えたら、不安でしょうがない。

 

 

もうちょっと考えると、死が近いっていうのは統計的に近いというだけ。個別的に見れば人は何かの拍子に死んだりするし、自分が死ぬ確率が低いっていうのは、統計的判断でしかない。

 

マジョリティの人の不安感ってどの段階なのだろう。

 

死が発明品だっていういうのの続きは、死は生者のためにしかない。

変な話、疎遠になってもう交信することは全くなくなった友人は死人か否か。

 

父親の49日か何かの集まりで、お坊さんが、死んだおかげで集まることができて故人のことを話せる場ができた、みたいなことを言っていて、当時姉はめちゃくちゃ怒っていた。姉の日記も美味しかったのだけど、今や姓が分からないから読めない。

 

 

でも、お葬式とか言った儀式っていうのは、生者が死者を悼んでいるっていう場をわかりやすく提供することにある。

 

 

本当に死者を思うなら、誰にもわかりやすく表することなんて要sらないような。

 

 

あとは、生者が備えるためっていうのもある。

保険と近いけど、自分の生の外を先に観念化しておく意味合い。

 

だいぶ時間おーばーだからおしまい。

 

 

 

 

 

 

分割

なんだか喉が詰まっている感。

 

昨日の続きみたいな話。

 

そもそもっていう言葉は結構好き。あまり使う人は居ないし、実際のそもそもなんてないようなものだけど、その人が掘り進めた現状の階層みたいな意味だと思っている。

 

ということで、そもそも言葉という発明品は、諸々あるけれど、ざっくり言うと、言葉で示すものを言葉で示すもの以外と切り分けるためにある。もともとは伝達のための記号だったのだろうけど、そのうち頭の中の混沌を切り分けるための機能になったと思っている。

 

要は、自分の精神世界を外界に表現しているものが言葉。という感じで、自分が言葉を遣っているっていうところから始まるのだけど、いつも間にか逆転して、言葉で自分が規定されるという現象。

 

言動で表現しないと自分は他人に伝わらないから、わからなくもないけど、言動外の自分が置いてけぼり。自分を掘り下げるときに言葉は必要ない。

 

 

 

あぁざっくり過ぎて嫌だけど、しょうがない。

 

 

生死の切り分け。素朴な感覚はだいたい最大公約数的な意味では一致していると思う。肉体的な死。これは何回か接したけど、確かに衝撃。飼っていた猫が坂に止めていたワゴンのスライド式のドアに挟まって死んだ時とか、10代の僕は、現実はゲームのようにリセットできないって悲しんだ。

 

 

でも、そうした最大公約数っていう考え方って、なんとも気味が悪い。誰かが亡くなった時に最初に思うのが遺族への挨拶とか、なんだかおかしくなかろうか。悲しみを共有しなきゃならないっていう強制感。これって生きている側の視点だろうなって。

 

 

僕の素朴な感覚では、死んだ飼い猫には片割れが居て、片割れは相方が死んだ後に相方のように振る舞うようになったっていうところに本質があるような気がする。

生物が本当に死ぬのは肉体的にくちた後に、その個体の影響を誰も受けなくなったとき。

 

 

 

ところで、法律はどう見ているのか。

素朴に考えていくと、精子とか卵子とかまで生命ってなるけど、そこまで掘っている人は居ないと思うけど、胎児が生命だっていうところになると、結構広いと思う。

 

この辺が関わるのは、民法と刑法だけど、どちらにしても、人程は保護されていない。これは生育可能性が乏しかったっていう時代背景もあるけれど、医療が発展した現代だって100

パーセント出産に至るところまでは行っていないはず。

 

 

 

そうして、死の観念も別に自明ではない。

刑法上の死は臨床医学を参考にしているけど、臨床的に死んでいる急患が蘇生することもあるらしいし。ここでの死は人によりけりってことになる。でも、医師が頑張って救命したら殺人罪が殺人未遂になるっていうのはなんだか不思議。

 

 

言葉の機能の良いところであり、悪いところは、中身が違っていてもざっくりで交信できるところ。だからこその発展っていうのもあるけれど、これを素朴な個人的な関係に引き直すと、面倒なことになる。関係になると中身が問題になるわけで。

 

 

 

最後。

 

こうやって考えていくと、今物理的な自分が停止したとしてもしばらくは影響として生きているのだろうなって思う。自分に倣う人は皆無だろうけど。僕が選別するべきはそういう関係なのではとも。

 

なんでいくら書いても言葉足らずなのか。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

好き嫌い

 

なんとなくパソコンの調子が悪い。調子が悪ければ言葉は残せないし、それだけ脆い電子機器。代替性は確かにあるし、本当に残したいのであれば、媒体は限られない。手書きだと物理的に読める人が限られているっていうのもきっとあるし。僕は字が下手だから遺品整理で僕の痕跡を探ろうとした人が万が一入れば解読が大変だろう。ちなみに僕は父親の痕跡を探って日記は見つけた。ただ、文量がツイッター水準だったし、中身はあまり書かれていなかった。

 

フリーズしたら困るから、ちょくちょく上書き保存しながら書くか。

 

 

ともあれ、しばらくは死に囚われたことを書く。っていっても、自分で自分を殺す方向ではなくて、純粋な死を取り出して観察するだけ。自死1つの表現なのではって思ってきたから、そういう表現は面白くない。不謹慎な気はするけど、誰に対して?

 

 

死について! を書いた人は、仕事! っていう本で何か賞を得たらしい。だからか、4人読んだ段階で、死と仕事はなんだかセットなように読めた。そこから進めると、肩書も割と仕事に近いかなって。父とか母。違いは、、そんなにあるのだろうか。

 

家族は肩書ではないっていうことも考えられるけど、当人がどう考えているかはここではあまり関係ない。他人に伝達するためには、省略できる情報はできるだけカットするというだけ。ここの中身は相手に伝えないっていう意思とセットという可能性もある。

 

 

では、取り出した死の話。

 

 

言葉が人類の発明品だとすると、言葉で表現できる概念は発明品で、死もそこから免れない。

死は自明なものだって思う人は、まともな感性を持っている人。おそらく肉体の活動停止が死と直結している。わかりやすいし分かるけど、なんかそうなると精神を度外視することにならんだろうかと。例えば、植物人間になるようだったら生命維持装置を外してくれって意思表示をしてたのに、生命維持だけでも生だってエゴで意思を度外視するとか。

 

 

ところで、法律を一言でいうと、基準を作ることにある。厳密に言ったら諸々あるけど。

 

法律の生死の基準も肉の死を中核としている。

 

 

精神は法律では守られない。

 

もっと書きたい思想は在るけれど、限界なのでおしまい。

 

 

悪い子

 

 

髪を切りに行ってきた。いつものお姉さんに戻ってよかった。最初の方は自分が熟考モードになっていて全然会話がなかったのだけど、そのうち会話になって、理容と美容の業界の微妙な関係とか、業界の労働環境が優しくなったとかそういう話を聞き出していた。自分が業界に入った10年前はーって言っていたから、思ったよりお姉さんの年齢が高いのは分かった。なんで美容じゃなくて理容を選んだのかっていうのも掘り下げてみたいところだけど、仕事の中での会話を越えてしまうような気がする。

 

好奇心で聞くわけではないし、考え過ぎだと思うけど、関係性の枠の中でしか無い会話というのはどこにでもあるような気がする。っていうところから、自分は中核ではない意味でサイコパスなのではっていう解釈が生まれたけど、これは書いてはいけない気がする。

 

 

それでも、人と会話をするっていうのは何処かが満たされるという感覚がある。楽しい会話というのも稀だけど、どういう会話にしろ未知は未知。存在で言ったら、会話はお互いに存在を刻みつける行為とも言える。だからスタンプとかいいねとかスターができた。

 

 

ともあれ、僕はコミュニケーションを人と取れない訳ではないのだなっていうのは自覚しとこう。ただ、自分がどう印象付けられるのかっていうのを想像すると障害がある、というだけ。こんなの余計な画策だし、むしろ良い印象が嫌なんだから歪過ぎる。

 

さておき。

 

 

死について! が届いた。

昨日神奈川だったから届くのは日曜日だろうって思っていたけど、今日やってきた。

 

 

63人中2人分読んだ。なるほど、インタビューは文体も寄せているのか。

ノンフィクションだって編集作業はあるだろうし、単にボイスレコードで聞いたものを文字化しただけでは読めるものにはならない。

 

でも、原案の方は読んでいると鳥肌が立ちっぱなしだった。

鳥肌が立つっていうのは個人的なレーダーでしか無いけど、芸術まで昇華されているところにそうなるって観測している。死に多く接するから生々しくなるのではなくて、生々しさを作るのは演出家。

 

 

 

はいはい、熟考モードになると、日記に書くのが面倒になる。

一応わきまえているから、何処まで書いたら良いのかとか、調整が大変。

 

 

 

酔えば酔うほど醒めるっていう矛盾。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

棲み分け

 

唐揚げとサバ缶グラタンとアボカドと豆腐のごま油塩和え。唐揚げは下味に使う酒がなかったからビールをちょっと入れて、生姜とにんにくがなかったからわさびと甜麺醤を使って、おろしポン酢にした。サバ缶グラタンはサバ水煮缶をおおまかに砕いて敷いた上に春キャベツの千切り、ミニトマトコンソメ顆粒、牛乳ちょっと、胡椒、チーズ。チーズはとろけるつもりだったけど、水分が飛んでしまっていてカリカリになってしまった。無茶苦茶な調味料の組み合わせに見えるけど、普通に美味しい。こういうやり方は下手すると大変なことになるからやめておいた方が良いけど。

 

 

さておき。

 

昨日は随分頭がすっきりした回だった気がする。

自分が死んでも覚えておいてほしいって思う感覚は、認識の中にしか人は存在できないっていうところにあるのかもしれない。

 

と、考えていくと、他人との相性って、相手が自分のことをどう認識しているのかっていう部分が根っこにあるんじゃないかっていう問題提起。こんなの合わせ鏡でどうしようもないけれど。卵と鶏のどちらが先か。

 

 

今日同い年の先輩が仕事納めだった。僕も一ヶ月後だからやり方みたいなものを観察していたのだけど、なんだか儀式張っているというかあざといというか、結構身辺整理と似ていた。

 

一般的にそうなのだって言われたら、自分はここまでやらないしできないなと。まぁ働いた期間も雇用形態も違うからやり過ぎてもいけないだろうし、なかなか難しい。昼休みは休憩時間をずらすのも含めて女性皆でご飯を食べるとか、古き良き職場なのだろうけど、僕はこういうのは駄目だ。別に特に仲良くないだろうって見えてしまう。

 

恋人さんはこの同僚さんが僕に行為を抱いているっていう見解だったけど、僕としては、この人の匂いが駄目だった。ちゃんと身だしなみとかケアしているだろうし、体臭なんて感じる距離まで行かないのに、何か嫌なムンムンする匂いがした。何を嗅いでいるかは不明だけど、したたかさだったのかなとも思わなくはない。

 

匂いが駄目って普通は不摂生とか体質そのものだろうけど、この人のは違った。色々憑いているのかも。匂いに対する考察はきっと遺伝子の話になるし、遺伝子まで思考がいってないからざっくりとしか書けない。

 

匂い論でいう相性は、無臭か、臭いけど良いって認識できるかどうか。

だいたいの人って無臭だから、よく分からないってことにしておこう。

 

僕は鼻炎気味だから生物学的な嗅覚ってきっと大したことないけど、味覚は嗅覚と繋がっているからって考えていくと。

 

 

五感と認識の繋がりっていうことはずっと考えている。

五感の何処かに障害がある人のことは分からないから遠慮してたいけど、この辺りも精神疾患と同じで程度問題だと思ってきた。現実の不自由さが違うだけで、誰だってどこかしら欠陥があるとしないとおかしい。

 

1番は視力。だけど、どんな視力の階層も、きっと皆同じものが見えているって認識しているはず。視覚が現在の人間の五感で1番強いものだけど、人間のざっくり括る力って途方もない。

 

視力が落ちていくっていうのを体験したことないから、視力が低い人の視界っていうのは泥酔の前の視界と同じくらいかなってくらいにし想像できない。若干焦点が合わずぼやけてくる。

 

 

ということは、見えない人って、脳内補正して話を合わせているのではっていうことも思うし、個人的には精神的な視野と物理的な視力には相関関係がありそうって思っている。検証不可能だけど。

 

 

 

なんだっけ。

 

 

個人的な業務は随分スムーズになった。もう終るからっていうのが一番の原因。

終わらないって考えたら、先輩の世界を壊さないようにっていう精神傾向が1番に働く。仕事場自体の世界構造と、働いている先輩たちがその職場をどう捉えているかっていう世界構造が何重にもなっているっていうことのどれを選ぶかっていうのがずっと分からない。でも終るってなったら、どの構造もどうでも良くて、自分だけの認識で良い。完全ではないしろ。

 

 

 

という感じで帰り際考えていたことは、人って過去の自分を蔑ろにしているっていうのに加えて美化しているんだろうなっていう命題。

 

人は永い時間を継続的に認識することができないから過去と未来を創った。

昔の自分はもっと元気だったって言う人は多いけど、過去のその人なんて知りようがないからいくらでも装飾できるし、突き詰めようがないからなんとでも言える。

 

個人的な観測値だと、年代別の肉体に大した違いはないと思う。そりゃアスリート的な稼働で見れば無理だけど、日常的な稼働だったらそんなに変わらない。これは体の形が変わらないっていうところもあるのだろうけど、当人の過去の稼働を語る人のほとんどは美化だと思う。聞かれて答えたなら本当の可能性は高いけど。

 

 

 

最後。

 

 

人はいつか死ぬし、それを認識していない人はいないと思うけど、こと自分の死となると、いつか遠い未来だと認識している人がほぼ。面白いようで不可思議で、この認識は当人の頭の中でしかないっていう。

 

って考えると、まともに人格形成した上で、他人の目を気にしない人が1番強い。

 

ざっくり感が半端ない。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何処から何処まで

 

母から荷物が届いた。ちょうど一粒残らず米を使い切ったのが昨日でナイスタイミング。まぁそれは良いとして、乾燥ぜんまいも送ってくれた。祖母はそんなものは帰ってきたときに食べされば良いだろうって言ったらしいけど、息子は毎日弁当作って挑戦しているのだ、って断行的に送ってくれたらしい。ありがたや。

 

一晩水につけて戻してから炊かないといけないらしい。炊くっていうのは方言というかある地方の調理法の言い方なのだろう。煮るとほぼ同義なのだけど、たぶんニュアンスに違いがある。調味料は変わらない。そう言えば思い返すと、時々水に使っている食材があった気がする。餅とか。

 

ともあれ、山菜類は試行錯誤の結晶だと思う。食べざるを得なかったのか、食べたかったのかっていうのは判断に迷うけど、個人的には後者の説を推したいし、そうでなければ残らなかったと思っている。

 

 

 

さておき。

 

精神的栄養の話。

 

死生観って通常の会話で必要としない。だいたいの会話はうつろう刹那的な表面上のネタで事足りるし、固有のものだから誰かと共有できるものじゃないし。固有だからこそ美味しいのだけど。

 

認識で世界が変わるっていう話をしたけど、死っていうのは認識の外にある。

ノルウェイの森で、死は生と表裏じゃなくて繋がっているものだっていう感じのフレーズがあったような。確かに繋がっているけど、人が死を考えるとき、どうあっても生から観測した死っていう観念の話になる。痛いのが嫌だっていうのは典型的。

 

なんだろう。自分が体験したことがないものだから、必然的に客観的になるってことでいいのかな。他人の死の経験値でしか思考できない。理想の死っていうのも不思議なもので、主観的だって当人は思っているだろうけど、他人からどう観測されたいかっていうことになりそうな。

 

死は客観的にしか観測できないけど絶対値だから何か歪むのかな。

歪みこそ人の真骨頂。

 

 

ちなみに僕の理想の死は死に方はなるべくあっさりで、僕と接した記憶を皆失ってくれると良いなって思っている。さっさと自分の生活を重視してくれって。それでも、死ぬまでにタイムラグがあればできる限りありがとうございましたって言っておきたいって想像している。もう通信経路がない人にも魂だったら伝達できるだろうか。跡を濁さず。

 

忘れたくないって言われても、そうなってしまえば気づくことすらできない訳で。

日常的に流れるニュースでの誰かの死と同じ。

 

人間味がないこと。

これを鬱傾向だと言われればそれまでだけど、本当にそうなのかって疑問。

 

 

まぁ良いや。

しばらくご飯には飢えないみたい。

 

そう言えば、仕事はやっと正式に期間満了で終わることが決まった。

にもかかわらず、なんだかクリアになっている。

 

筋肉の人が答えのない仕事を回してくれたっていうのも1つ。

だいたいの考えろっていう指導って、指導者の中では答えがあるしさらに言えば別に思考過程なんてどうでも良くて結果を出せっていうところ。思考過程まで聞き取りするなら良い指導者の気がするけど、現実の社会はあまり知らないので。

 

そうやって調べて組み立てて報告したら助かりましたって言われて、なんだかすっきりした。これは面接に使おう。笑

 

でもなくて、考えると詰まるって袋小路になるって観念は、きっと考えても何も現実化しないとか意味がないっていうところにあるのだろうけど、本来の考えるはもっと客観的なもので、そうやって考えることは栄養にしかならない。

 

 

最後。

 

世界は窮屈だっていうのがだいたいの共通認識に見えるけど、観念って流行と一緒で循環しているように思う。歴史で淘汰された情報がいかほどあるかは分からないけど、今度のものさしはもっと開放的になるような。

 

他人に譲ることが自分の利益になるっていう観念が戻ってくるといいな。

情けは人の為ならず。

 

 

こんなにいい感じで終わっていいのだろうか。

ということでエクストラ。

 

僕の理想の死があんなことになっているのは、自分が誰かに何かを与えたっていう充足感がないから。与えてもらっているものしか計量していないっていうのもあるし、与えたものがあったとしてもそれはばら撒いているだけだから、それを自信として対価にしていない。

 

なんだっけ、アイデンティティとは諸々の矛盾した自分を統合する力みたいなのが命題コレクショにあった。

 

僕は統合する気がないって決めてしまう方が良いような。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まなざし

 

 

個人的に雨はそんなに嫌いじゃないのだけど、雨を毛嫌いするのは何故だろうって考えていた通勤時間。結論としては、余計なことをしないといけないと認識しているからかなと。友人は雨の日は湿度が高くてくせ毛がうねって嫌だって言っていた。傘は差さないといけないし、洗濯物は部屋干しして生臭くなっちゃうし。

 

 

ここだけだと単なる観察。

では、考察。

 

余計なことかどうかっていうのは、何かと比べて、っていうのが前提になる。ここだと明らか。おそらく日本は統計的に晴れの日数が多いっていうのもあるだろうし、省エネできて都合が良いっていうのもあるし、日の光がそもそも好きだっていうのもある。

 

要は、人がものごとを捉えるときには基準が在るということ。平均値と絶対値があるかなぁと通勤時では思っていたけど、書いていたら、何回か同じ出来事が偏ればそれが標準になるっていうのが追加された。人は偏りも好き。楽になるものが好きっていうのもあるし、混雑してきた。

 

交通整理して。

 

平均値と絶対値。平均値は変動があるものだから基準とするには正確ではない。天気の絶対値はうつろうこと。まぁ人が生きる上で正確な基準は必要とはされていなくて。大事なのは自分が生きやすい基準。

 

では、人の絶対値はなんだろう。絶対値っていうのはどうあっても変わることがないもの。っていったら、明らか。

 

死。

 

やっと本題。

 

時系列は冒頭より少し遡る。

早めに目が覚めたからブックマークを眺めていたら、久々に美味しい文章を食べて、なんだか初体験に誘われた。さそわれたと表記が一緒なのは困るな。

まだ、実際に観に行くかっていうのは保留にしているけど、本当に行くと想定したら原案読んでいないのは失礼だろうなって、起床から通勤時間の合間に検索したらたまたま中古で1冊だけあったからネットで本を買うのも初体験。

 

基準値っていうところでいうと、僕はあるかないか分からない一回を標準としている。

 

 

だからと言って客観的な世界は変わらない、なんてことはない。

たまたまかもしれないけど、今日は仕事も流れが変わったかなっていう印象だった。

 

 

個人的な見解だけど、このたまたまっていう感覚が1番大事。

変な話、人間関係だってほとんどがたまたま接することになって継続しているわけで。

 

継続年数が人間関係の深さだっていう向きは確かにあるけれど、これって要は平均値の話に戻る。

 

 

 

さておき。

 

 

社会学命題コレクションもあるし、交信でもあるけど、社会的な性差みたいな話。

これは個人の目よりもっと広いからいろいろと錯綜する。

 

一言で言うのも難しいけど、人って創造に対する素朴な羨望があるけど、それを自然にやってしまう女性に対する劣等感が今の社会の根底にあるのだろうなって。

 

 

優位に立つには、社会をそういう風に創設するしかなかったからこんなに歪になった。

父親は自分の子供が本当に自分の子供か分からない不安感があるっていうのは確かになって。その為には女性を家族として拘束して他の男と交尾しないようにする必要があった。

 

なんだか生々しくなってきたけど、恋愛感情も基本的には社会の刷り込みで。

性に奔放な人に対する評価って、きっと非常識だとか相手を大事にしていないとかしかできないはず。性交渉のパートナーが相手だけだと何故相手を大事にしていることになるのか、説明できるかしら。

 

最後。

 

 

結局のところ世界は自分次第だっていうことは何回も書いていると思うけど、もう少し展開すると、自分の認識次第だっていうこと。常識は壊せても認識は簡単には壊れない。

 

 

 

 

おしまい。